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天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。
1850年(嘉永3年)再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えている。南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落しが付けられていた。焼失した天守の創建年は不明であるが、それについては浅野幸長が創建したとする説(1600年(慶長5年)築)と頼宣が創建したとする説(1619年(元和5年)築がある。創建時は、下見板張りの壁面であったと考えられてい。
1847年(弘化4年)に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている。
天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1850年(嘉永3年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と「御天守御普請覚張」を参考にして1958年(昭和33年)に再建されたものである。復元には東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート構造による外観復元とされた。復元設計にあたり、参考にされていた文献や図には天守群の高さが記入されていなかったため、焼失前に撮影された写真に写る他の建造物との高低比から天守群の高さが算出された。
(参照 和歌山城
- Wikipedia)
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